真田太平記 | 犬伏の別れなど、名場面を回想します

真田太平記は1985~86年(昭和60~61年)の毎週水曜日・夜8時から45回にわたってNHKで放送されたドラマである。原作は池波正太郎。主な登場人物は父・真田昌幸(丹波哲郎)、兄・真田信幸(渡瀬恒彦)、弟・真田幸村(草刈正雄)である。
戦国時代、信州上田(現在の長野県上田市)に居城があった真田家。国境を上杉、北条、徳川の大勢力と接し、いつ攻め込まれるかもしれない緊迫感の中で、権謀術数を尽くして生き延びる、そんなサバイバルな一族の生き様を描いたドラマです。
 

真田昌幸

真田というと、真田丸の幸村が人気ですが、父の昌幸が優れていたからこそ、後の大阪城での幸村の武勇伝が生まれたと言っても過言ではありません。幸村は父に付き従い、その武将としての才を受け継ぎました。コアな戦国ファンは昌幸が好きという人が多いそうですが、私も、このドラマを観て、昌幸のファンになりました。というよりも、昌幸を演じた丹波哲郎に魅了されました。
 
50歳以上の世代には、丹波哲郎はバラエティー番組で霊界を熱く語るおじさんというイメージですが、本来は俳優(大御所)で、一世を風靡した刑事ドラマ・Gメン75のボスとしても有名です。そして、真田太平記での演技は”素晴らしい”の一言。豪放磊落で、戦術に長け、女好き。そんな昌幸の人物像を、丹波哲郎が見事に演じきっています。
 
では、私の心に残る名場面を回想します。
 

上杉景勝と対面する場面

昌幸は徳川と手を組んで北条と戦っていましたが、徳川と北条が和睦し、その条件として、昌幸の所領の一つである沼田を北条に譲渡するように徳川から命じられました。昌幸は、徳川の裏切り行為として反発し、徳川・北条軍と一戦を交える決意をします。しかし、戦いを始めるには、もう一方の国境を接する上杉と同盟を結ぶ必要があります。さもなければ、徳川・北条軍と戦っている隙に、上杉軍に攻め込まれ、真田の所領が奪われてしまいます。弱肉強食の戦国時代、一瞬の隙も許されません。しかし、真田と上杉は過去に数々の戦いを繰り広げた因縁があり、上杉がそのことを恨みに思っているならば、今回の同盟は成立しません。むしろ破談に終わる可能性の方が高いでしょう。昌幸は悩みます。そして、出した結論は、昌幸と幸村の2人で上杉の居城・春日山城へ直談判に行くことでした。もちろん、無防備な状態で敵城を訪れるわけですから、会談が決裂すれば、その先に死が待っていることは必定。緊迫した状態で、昌幸・幸村と上杉景勝の対面の場面が始まります。
 
春日山城の一室、真田親子が待っているところに、お付きの者を従えた上杉景勝がやってきます。互いの名を名乗り合った後、昌幸が今回の訪問の目的を伝えます。そして、徳川・北条と戦うためには、一時、これまでの両家の過去を忘れて頂きたいと願い出ます。それを聞いた景勝は「安房守(あわのかみ:昌幸の官位)には何度煮え湯を飲まされたかの、そのワシへそのような申し出は虫が良すぎる」と言い放ちます。その言葉に、同席している上杉家臣の表情は引き締まります。次の言葉しだいで、刀を抜くことになるかもしれません。会談決裂かと思ったそのとき、一瞬の間を置いたのち、景勝は静かに語ります。「なれど、それもこれも戦国の世の常じゃ。許しがたいことと思うが、堪えて遣わそう」。昌幸は、その言葉を聞いて、感無量の面持ちとなり、平伏します。そして、申し出を受け入れてくれた見返りは何かと問います。当然、それなりの交換条件を突きつけられると考えたのでしょう。しかし、景勝は一言、「ない」と言います。「何を?」、「何もない」、「命を賭して越後に参った安房守親子に無理は言うまい」。昌幸は、景勝の意外な一言に少し困惑した表情を浮かべ、それならばと、幸村を人質として春日山城に残していくと言います。景勝は笑みを浮かべ、「それは後の事じゃ」と言います。徳川・北条の大軍勢と戦ったらまず勝ち目はないだろうから、まずは親子で力を合わせ存分に戦えばよい、人質云々の話はその戦いを生き延びることができた後の話であると。
 
景勝は昌幸に対して、これまでの戦いで、敵ながらあっぱれと同じ戦国武将として尊敬する部分があったのでしょう。どんな人物か一度は会ってみたい、そんな風に家臣に語っていたのかもしれません。そして、実際に対面し言葉を交わす中で、昌幸の人間味とその覚悟を感じ取った。まさに自分が思い描いていた人物のままだったので、敵味方を忘れ、愉快な気分になった。最後は「安房守、武運を祈る」と言って立ち去ります。昌幸と幸村は平伏しますが、そのとき、昌幸の肩が少し震えています。景勝から受けた恩に感極まったという演技ですが、ここら辺は細かいところまで演じています。
 
敵将を許す度量を持った漢・上杉景勝。時間的には短いですが、とても印象に残る場面です。
景勝を演じるのは伊藤孝雄。髭を生やした表情は貫禄十分で、こちらも適役。目力とともに、敵への恨みと警戒心からしだいに気を許していくまでの表情の変化を見事に演じています。
 
真田親子は春日山城で一晩を過ごすことになります。寝室で、昌幸が幸村に言います。「今日の事は忘れまいぞ。もしワシならば、むだむだと真田親子は返さなかったかもしれん。ワシは忘れぬ」。この出来事が、後の関ヶ原の戦いの折に、昌幸が豊臣方(景勝が味方した)に加勢する伏線になっています。
 
 

父・兄弟が袂を分かつ場面

このドラマの大きな分岐点になるシーンです。これまで、父・兄弟が力を合わせ、真田家を守ってきたのですが、関ヶ原の戦いを前に、豊臣方に付くか、徳川方に付くかで意見が分かれます。場所は犬伏の陣。昌幸と信之が正対し、その横に幸村が座ります。昌幸が豊臣方に付く意思を述べますが、これに信之が反論します。天下泰平を考えた場合、徳川方に付くことが得策であると。さらに、「父上は再び戦乱となり、それに乗じて世に躍り出ることをお望みか?」と問い詰めます。少なからず図星であったのでしょう、昌幸は、その言葉を遮るように、大きな声で「豆州(ずしゅう)」と信幸の官位名(伊豆守の別名)を叫びます。外は雨、雷が落ち、木が裂けます。まさに、今この瞬間、真田親子の決裂を象徴するかのように。画面は昌幸、信幸、幸村の表情をゆっくりと順番に映します。昌幸は、諦めとともに、一種の安堵感を得たような表情で、静かに言います、「豆州、これで決まったの」。「はい」、「左衛門佐(さえもんのすけ:幸村の官位)はどうする?」、「父上とともに」。幸村は続けます。「親子兄弟が敵味方に分かれるも、あながち悪しうはごさいまするまい」、「沼田(信幸の居城)が立ち行かぬときは、私の上田(昌幸・幸村の居城)がございまする」。信幸がぼそっと「上田が立ち行かぬときは沼田か」。
 
実際に、このような会話が交わされたかは定かでありませんが、歴史の事実として、真田家は親子兄弟が敵味方に分かれて戦い、結果、徳川方の勝利に終わります。豊臣方に味方した昌幸・幸村親子は高野山・九度山に幽閉され、そこで昌幸は生涯を終えます。しかし、幸村のセリフのように、敵味方に分かれることは、どちらかが勝者となり真田家は残るということ。実際に、徳川方に付いた信幸は93歳まで生き、真田家を後の世まで存続させる礎となりました。
 
シーンの最後、信幸が「では、これで」と陣を去るとき、昌幸が「もう行くか」と言って、互いに見つめ合います。これが最後の別れになるかもしれない、そんな感慨深い雰囲気を漂わせる場面です。これまでも激情家の昌幸と冷静な信幸は意見対立することがしばしばありました。しかし、心の奥底では互いを認めている。別れの一瞬、初めて本当の気持ちが表情に出る、そんな細やかな演出と受け取りました。
 
 

又五郎の死の場面

真田家は忍び(草の者)による諜報戦略に長けており、壺谷又五郎(夏八木勲)を筆頭に、お江(遥くらら)、向井佐助(橋本橋之助)などが組織されています。昌幸は、草の者に対して正規の家臣と分け隔てることなく接し、特に又五郎には、長年の戦友といった感じで、心からの信頼を寄せています。
 
時は関ヶ原の開戦前。又五郎は豊臣方を勝利に導くことが昌幸のためになるとして、独自に動いています。忍びの特性を活かし、徳川家康の本陣に潜入し、家康を亡き者にしようと試みますが、失敗します。そして、遂には、今一歩のところまで近づき、最後の一太刀を浴びせようとしますが、家康の周りを固めていた徳川の忍びに阻まれ、相打ちとなって亡くなります。
 
数日後、佐助が戦場跡で又五郎の亡骸を発見し、事の顛末を昌幸に知らせます。知らせを聞いた昌幸は涙を浮かべ、佐助と幸村に語ります。「ワシはなぁ、又五という奴はな、死ぬる縁のない奴だと思うていた、又五はな、死なぬと思うていた」。膝を叩き、悔しがる姿を見て、佐助の目にも涙が溢れます。昌幸は立ち上がり、叫びます。「又五~。ワシよりも先に死ぬる、馬鹿な、又五~」。この悲しみをどう受け止め、どう対処してよいかが分からず、故人の名を叫ぶ。草の者を一人の友の死として悼む。湧き出る感情を絶妙の間と表情で演じています。前後のストーリーを知らずに、この場面を見ただけでも思わず感情移入して泣けてくる、そんな鬼気迫る演技です。

是非、一見!

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